ルル部ノート

LOLに登場するルルを愛して止まないルル部のブログです。

シンジドのバイオ(2021.11)

マッドケミスト
ルーンテラ中で「シンジド」と呼ばれる、ひねくれ者で理解しがたい狂人も、ピルトーヴァーに生まれた時はごく普通の人間だった。子供の頃から彼は驚異的な知性と尽きることのない好奇心を発揮していた。自然界の原理と相互作用に魅了された彼は、やがて名門ピルトーヴァー大学で奨学生として学ぶようになった。

才能が認められるまでそう長くはかからなかった。

自然科学に関するシンジドの研究は素晴らしいもので、革新的ですらあったが、そんな彼もヘクステックの発見によって魔法とテクノロジーの合成がもたらす可能性が取りざたされるようになってからというもの、ピルトーヴァーの注目がすべてそちらに向いてしまったことに気付かざるを得なかった。シンジドは蚊帳の外からその様子を見て、魔法とは、世界の仕組みを理解できないか、そもそもきちんと知ろうとしない人々がすがっている支えのようなものだとみなすようになった。そして彼は大学内でそうした流行を、目新しいだけで無知によるものと、声高に批判するようになった。

シンジドは流行を追わずに、錬金術の化学的可能性を掘り下げて研究し、その分野にとって有益な成果を残したのだが、そんな努力もむなしく学者仲間の冷笑を買ったに過ぎなかった。やがて資金は底をつき、彼は大学からも、ピルトーヴァーからも追い出されることとなった。シンジドは新しい生活を始めることを余儀なくされ、ゾウンに移住した。

地下都市では命の値段は低く、技術革新への関心は高かった。シンジドは新興のケミテック産業ですぐさま仕事を見つけ、たちの悪い種々雑多な客に、その技術と飽くなき意欲を提供した。彼の実験は倫理的に疑わしいものが多かったが、幅広い分野を網羅していた。人間や動物の拡張、そして拡張した人間と動物を融合する実験を筆頭に、無数の試みが行われていた。彼は驚異的な早さで新しい分野の研究を進めていたが、自身の健康を犠牲にすることも多かった。生物に必要な化学物質について誰よりも深く理解していた彼は、自身の集中力を保ち、一回の服用で何週間も続けて作業することができる興奮剤を発明した。しかし、薬が切れると彼は崩れるように倒れ、身体は震えて衰弱し、最終的には何日も眠ることになった。

シンジドが、錬金術師として異常なまでに働き続けたことで、後援者や顧客に困ることはなく、やがてノクサスのウォーメーソンまでもが彼の顧客となった。ピルトーヴァーとゾウンではとある噂が囁かれていた。ノクサス軍が帝国元帥とともにシュリーマ北部へ侵攻した際、ピルトーヴァーに法外な通行税を払ったため、帝国は破産寸前であり、すぐにでも金をかけずに征服できる地を他に探すことになるだろう、というのだ。シンジドにとっては、料金さえ払ってもらえればどうでもいいことだった。

小規模な仕事を途切れとぎれに何年もこなした末、シンジドはノクサスのエミスタン軍司令官から、膠着状態となったアイオニアでの戦況を打開するための協力を依頼され、錬金術師として契約を結んだ。彼女は、未だかつて誰も見たことがないような新種の兵器を必要としていた。そして彼女は…シンジドに富を与えることができる人物だった。

シンジドは金以外のことは考えもせず、自分の知恵と知識、そして経験をすべてこの新兵器の開発に注ぎ込んだ。研究の結果、不安定で危険な、世にも恐ろしい錬金術の炎が生まれた。ついにその兵器がアイオニアの地でノクサスの敵に放たれると、炎は岩を砕くほど熱く燃え盛り、周囲の大地は高濃度の金属毒によって、何も植物が育たないほどまでに汚染された。その光景は、エミスタンの友軍でさえも震え上がるほどだったが、彼女とシンジドが戦争犯罪者と呼ばれるまでには至らなかった。

今やシンジドは実験のための資金や材料はもちろん、被験体にすら困らなかったが、それでも自身が積み重ねてきた年月の重みを実感するようになっていた。彼の最新の研究は、明らかに生物学的な要素が多く取り入れられ、はるかに規模も大きいものだった。動物や人間、そして機械の融合に挑んだ最近の実験で、研究室が廃墟と化した上に、自分の顔面の形をボロボロの包帯で何とか保つ始末、被験体はゾウンの街に野放しという結果になってしまったが、シンジドはそれでも止まることはない。

肉体の破壊を極めた彼は、今ではその保存と変形…そして恐らく、いつか訪れる死に生命が抗う可能性について研究を進めている。

ビクターのバイオ・ストーリー(2021.11)

機械文明の先触れ
テクノロジーの新時代の先触れたるビクターは、その人生を人類の発展のために捧げている。人々を啓蒙し、新たな地平へ引き上げようとする理想主義者であり、人類の可能性を最大限に発揮できる唯一の方法は、テクノロジーによる輝かしい進化を受け入れることであると信じている。鋼鉄と科学によって自らの身体を拡張したビクターは、人類の栄光に満ちた未来の実現に向けて熱心に活動を続けているのだ。

ビクターはゾウンの「中層階」の境で生まれ、職人である両親に触発されて発明と創造への情熱を見出した。目を覚ましている時間の全てを使って研究に没頭する彼は、たとえ食事や睡眠のためであろうと、作業を中断することを嫌った。近所での化学薬品の漏洩や爆発事故、ケミスモッグの接近などによりしょっちゅう引っ越ししなければならないことは、さらに腹立たしかった。ほんの短時間であっても、研究の手を止めることは彼にとって許しがたいことだったのだ。

自分を取り巻く世界に秩序と安定をもたらそうと、ビクターはゾウンの数多くの事故について調査した。そして、そのほとんどが機器の故障ではなく、人為ミスが原因であることを突き止めた。彼は労働環境を飛躍的に安全にするためのソリューションを開発すると、それを数ある地元の企業に提案した。ほとんどは目もくれなかったが、一企業だけ、フレダーセン・ケミテック鍛冶工場はこの誠実な若者にチャンスを与えた。

自動制御システムにビクターの発明を組み込んでから一ヶ月以内に、その工場の事故の発生件数はゼロになった。すぐさま他の事業者達も彼の発明を求めるようになり、ビクターの設計による、作業行程から人為ミスを排除する発明の数々は、ゾウン中で広く使用されて生産性を向上させていった。彼にとっても驚きだったが、19歳になった時、ゾウンの名門テクマトロジーアカデミーから入学を打診された。だがビクターの発明に目を付けたピルトーヴァーのスタンウィック教授は、ゾウンを離れピルトーヴァーのアカデミーに入るようビクターを説得した。そこでは最新鋭の研究施設を使用でき、「進歩の都市」が提供するあらゆるリソースにアクセスすることが可能なのだ、と。白羽の矢を立てられたことに興奮したビクターは、教授の勧めを受け入れてピルトーヴァーに移り住むと、発明品に改良を加えながら、あらゆる人間の役に立てるように自身の理論をより完全なものにしようと励んだ。

ビクターはピルトーヴァー最高峰の頭脳の持ち主達に混ざって学問に勤しんだが、その中にジェイスという名の自惚れた天才がいた。二人の知性は同等に優れていたが、ビクターがより整然、論理的、完全であろうとする一方、ジェイスは派手やかで尊大だった。二人は頻繁に協働したが、真に友情を結ぶことはなかった。「論理」と「直観」という対立する視点を持つ二人は発明のプロセスにおいてしょっちゅうぶつかり合ったが、互いを不完全な天才と認め合う中で、相互に尊敬の念を抱くようにはなっていった。

ピルトーヴァーでの研究の最中に、ゾウンで複数の区画が完全に壊滅するような大規模ケミ漏洩が発生し、ビクターは救援のため故郷に戻った。彼は既存の自動人形技術に高度な学習機能を組み込むことで改良型ゴーレム「ブリッツ」を造り上げ、救助活動を行わせた。ブリッツは何十人もの生命を救い、またビクターの予想を大きく上回る程に発達した知性を獲得したようだった。

ケミ漏洩への対処が完了した後も、ビクターは漏れ出した有毒物質に苦しむ人々を助けるため、ゾウンに留まった。ゴーレムと力を合わせ、テクマトロジーの技術を活かして、ケミ漏洩で体を蝕まれた人々を救おうと試みたのだ。毒に侵された人々の死を食い止めるため彼らは奮闘したものの、結局は失敗に終わり、その後二人はそれぞれの道を進むことになった。ビクターは、ゾウンの人々の命が失われたことで消沈したものの、一連の努力から多くを学んでいた――人体の組織とテクノロジーを融合させることについて、そして人間の肉体をテクノロジーによってどれだけ強化できるかについて。

数週間後、ピルトーヴァーに戻ったビクターは、スタンウィック教授がブリッツに関するシンポジウムを開催し、ビクターの研究を自分のものとして発表したことを知った。ビクターは大学上層部に対して異議申し立てを行ったが、ブリッツを設計したのは自分だ、という彼の主張を信じる者はいなかった。ビクターは自身の正当性を裏付ける証言をジェイスに求めたが、ジェイスは協力を断ったため、二人の間の溝はさらに広がった。結局、スタンウィック教授の不正が暴かれることはなかった。

苦々しい思いだったが、ビクターは諦めて研究に戻った。人々の生活を向上させ人類を高みに導く、という最終目的の重要性に比べれば、プロジェクトが一つ盗まれ自尊心が傷ついたことなど大した問題ではないのだ。彼は以前にも増して研究に没頭し、自分の発明から人為エラーと人間の弱さが影響しうる要素を排除する新たな方法を次々と発見していった。彼の研究のある一面でしかなかったはずのそれは、いつしか彼の思考の中心を占めるようになっていた。あらゆるプロセスにおいて、人間が関わる部分は全て、ひどく非効率な脱線である――それは、大多数の学生や教授にとっては到底容認できない価値観だった。彼らにとっては、ビクターが除去しようとしている部分こそ、人間の発想や創造性の根源だと思えたからである。

ピルトーヴァーの波止場の海底に沈殿する残骸や、残留化学廃棄物を除去するために使われるダイビングスーツを改良するという、ジェイスと不承不承組んでいたプロジェクトにおいて、ビクターの価値観の乖離は決定的に浮き彫りとなった。ビクターとジェイスが改良したスーツの着用者は、より深く潜水し、より長時間水中に留まり、より重いものを持ち上げることができた。だが多くの着用者が、海底で人魂を目撃したり、ケミ誘発性の幻覚を見たと主張した。それらの症状が現れたダイバーたちはパニックに陥り、結果として自身や仲間のダイバーの死を招くことも少なくなかった。ビクターはそれが技術的な問題によるものではなく、真っ暗な深海が着用者の神経を狂わせるせいだと考え、特殊なヘルメットを考案した。水上のオペレーターが、そのヘルメットを着用したダイバーの恐怖反応を麻痺させ、適切に「操作」できるよう設計されたものだ。ビクターとジェイスは自由意志と精神支配に関して激論を交わした。それは暴力沙汰寸前まで熱し、結果的に喧嘩別れした二人は、互いに二度と手を組むことはもう決してないと誓った。

ジェイスはその出来事を大学上層部に報告し、ビクターは基本的人権をないがしろにしているとして非難を浴びた――ビクターにとっては、多くの人命を救えるはずの発明だったにも関わらず、だ。放校処分となったビクターは、ピルトーヴァーの住民の視野の狭さに幻滅して、ゾウンの昔懐かしい自分の研究室に引きこもった。地の底でただ独りのビクターは、酷い心の苦しみに悩まされ、何週間も自問自答を繰り返した。そして直面した倫理的ジレンマと格闘した彼は、自分はまたしても人間の感情と弱さに邪魔をされたのだという結論に至った。自分は人々がミスを犯さないよう、命を落とさないようにと、人間が生来の限界を超越できるようにするため努力し続けてきたというのに。そして、ビクターは気付いた――彼自身もまた、人間の感情に支配されていたことに。正しい意志をもって行えば、いつか根強い偏見も乗り越えられる――感情のせいで、そんな何の根拠もない想いを募らせて、人間の根本的欠陥から長年目を逸らしてきてしまったのだ。人々を導くには、自分が先頭を行かなければ――ビクターは秘密裏に自身に手術を施し、自らの肉体や精神のうち感情に依存する部分、また逆に、感情によって抑制される部分を取り除いた。

手術が完了した時、かつてピルトーヴァーへと旅立った若者の面影はほとんど残っていなかった。彼は肉体の大部分を機械による身体拡張ですげ変えたが、その人格もまた変化していた。より良い社会への理想主義的な願いは、彼が「グロリアス・エヴォリューション」――“輝かしい進化”――と呼ぶ妄執へと変質していた。今やビクターは、自分こそヴァロランの未来、人が肉の体を棄てて、より優れたヘクステックの身体拡張に置き換えることができる、理想化された夢の世界への先導者だと考えるようになった。その世界で、人類は致命的な誤りや苦しみから救われるのだ、と。だがビクターには、この仕事が一朝一夕で成し遂げられるような、容易なものではないことも分かっていた。

ビクターは一心不乱にこの大仕事に打ち込んだ。テクノロジーによる身体拡張を用いて、事故で負傷したゾウン人たちを改造したり、呼吸機能を完璧なものにしたりと、身体と感情とを非干渉化させ、人間の非効率性を削減するため疲れを知らずに働き続けた。彼の仕事は何百人もの命を救ったものの、時に予想外の結果をもたらすことから、ビクターに助けを求めるのはまさに命懸けだった。

とはいえ、絶望の淵にいる者たちには、ビクターを訪ねるほかなかったのだ。

ゾウンの住民の中には、ビクターの哲学の一端を耳にし、その研究の成果を目にした結果、彼をある種の救世主として崇めるようになった者もいた。だがビクターにとって、彼らの似非宗教カルトはある種の倒錯であり、感情的欠陥や実在しないものへの盲信を除去するべき理由の一つに過ぎなかった。

最下層で発生したある有毒物質汚染災害の後、ファクトリーウッドの何百人という男女が神経に異常をきたし暴徒化した。ビクターは暴徒となった人々を鎮め、研究室に連れ帰って治療を行うために、強力な睡眠薬を使わなければならなくなった。患者たちの脳は有毒物質に侵食されていたが、ビクターは患者の頭蓋を切開して機械装置と接続し、血流から毒素をゆっくりと濾過することによって、その侵食プロセスを遅らせることができた。だが彼のテクノロジーは特効薬とはなり得ず、排毒用の装置を飛躍的に改良できなければ、いずれ多くの人々が死ぬことは確実だった。

人々を救うために奮闘していたある日、ビクターはピルトーヴァーから発生するヘクステックエネルギーの奔流を感知し、これこそ自分が必要としているエネルギーの源になり得るものだと瞬時に理解した。彼は強力なエネルギー波の出所を追い求めて進んだ。

そこは、ジェイスのラボだった。

ビクターはそのエネルギーの源――シュリーマ砂漠で発見された脈動するクリスタルを渡すよう、ジェイスに要求した。だがかつての同僚はそれを断り、ビクターは力づくで奪うほかなくなった。ゾウンに戻ったビクターは、その奇妙なクリスタルを濾過装置に組み込み、さらに患者の肉体が治療のプロセスに耐え切れなかった場合に備え、代わりの体にするためのスチームゴーレムを人数分用意した。新たなクリスタルからエネルギーを与えられたビクターの機械が作動を開始し、有毒物質による損傷が徐々に快復し始めた。彼の働きによってこれらの人々は救われるのだ――もしビクターにもう少し人間性が残っていたなら、きっと喝采の声を上げていただろう。ほんのわずかな微笑の気配、ビクターが自分自身に許したのはそれだけだった。

だが治療のプロセスが完了する前に、復讐に燃えるジェイスが乱入し、エネルギーを充填したハンマーで研究所を破壊し始めた。ジェイスのような傲慢なバカ者は、何を言っても聞きはしないとわかっていたビクターは、自動人形たちにジェイスを殺せと命令した。凄まじい戦いの末、ジェイスはビクターが奪ったクリスタルを叩き割り、その結果起こったエネルギーの大爆発により建物全体が崩落した。大量の鋼と石材が降り注ぎ、ビクターが救おうとした患者たちを永遠に消し去った。この行動により、ピルトーヴァーに戻ったジェイスは英雄と称えられた。

ビクターは崩壊する研究所から脱出し、破滅的な感情の衝動を除去することによって人類をより良い存在にする、という使命に立ち戻った。ビクターにとってジェイスの衝動的な襲撃は、自分の使命の正しさを改めて証明し、欠陥だらけの肉の体から人類を解放したいという願いをさらに強くさせただけだった。それから程なく、ビクターは身体拡張した殺し屋たちをジェイスの研究所に差し向けた。ビクターは自分に言い聞かせた――これは復讐のためではない。人類の発展のために利用できる、シュリーマのクリスタルのかけらがまだ残っていないかを調べるためなのだ。だが襲撃は失敗に終わり、ビクターはジェイスに関して考えるのを止めた。

代わりに彼は、人類の感情的弱点を克服し、理性に満ちた新たなる進化の段階へと導くための方法を、一層熱心に探し始めた。その研究は時に、ピルトーヴァー(そしてゾウン)では倫理に反するとみなされる領域に足を踏み入れることもあるが、それはすべて、ビクターのグロリアス・エヴォリューションを達成するために必要な一歩なのだ。

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エンバーフリット横町の家
BY RAYLA HEIDE
ビクターの第三の腕が細い光条を放ち、揺るぎない精確さで彼の左腕に金属を溶接していく。肉の焼ける臭いも、切り開かれた左手首の血管や筋肉や腱が機械と接続され、拡張されていく光景も、もはや彼の平静を乱すことは一切なかった。うめき声一つ上げることすらない。むしろ、人工物と有機的素材が継ぎ目なく繋がっていく様を凝視しながら、彼は達成感を覚えていた。

子供たちの叫び声に、ビクターは一瞬動きを止めた。靄に包まれたこのエンバーフリット横町の界隈にまで、危険を承知で下りてくる者は滅多にいなかった。それがビクターがこの場所を選んだ理由だった――彼は邪魔の入らない場所を好んでいたのだ。

左腕が動かないよう保持したまま、ビクターは虹彩鏡の銀のダイヤルを調整した。この器具にはいくつもの鏡面加工レンズが組み込まれており、光の屈折を利用して研究所の外の通りの全景を見ることができた。

何人かの子供たちが痩せっぽちの少年を、研究所の鋳鉄製の門の方へ乱暴に突き飛ばしていた。

「ナフ、一分ももたないんじゃないかな」両目の上に模造宝石を埋め込んだ少女が言った。

「きっと真鍮製の頭になって戻ってくるさ」赤いモジャモジャ髪の少年が言った。「灰色の靄みたくモヤっとした脳ミソも、ちょっとはマシになるんじゃないの」

「金目の物を見つけて戻って来い、さもなきゃオレ様たちがお前の頭をすげ替えてやるからな」一番大きな体をした少年が、痩せて背の低い少年の襟首をつかみ、無理やり前に歩かせながら言った。他の子供たちは、それを遠巻きに見ている。

そびえ立つ門の前まで来た少年がガタガタ震えながら押すと、門は甲高い金属音を上げて開いた。そのまま組み合わされた歯車で飾られた正面扉を通り過ぎ、開いた窓によじ登る。少年が床に落ちた瞬間、アラームが鳴り響いた。

ビクターはため息をつき、警報を止めるスイッチを押した。

痩せた少年は屋内を見回した。壁にずらりと並んだガラス瓶には緑色の液体が満たされ、有機物と金属の臓器が浮いている。部屋の真ん中には血の染みだらけの革のストレッチャーが鎮座し、その上には機械のドリルが設えられている。何十体もの自動人形がピクリともせずに、それぞれ四方の壁を背に立っている。ビクターにとって研究所は最も創造的かつ重要な実験を行うための聖域であるが、子供にとっては恐ろしい場所に見えるだろう、そう彼は想像した。

作業台に着き、テーブルの上で腕を切開しているビクターを見て、少年は驚きに目を見開き、近くの荷箱の陰に隠れて縮こまった。

「君がその箱から学べることは何もないぞ、少年」ビクターは言った。「だが、その箱の上には骨ノミがある。取ってくれ」

震える手が荷箱の上に伸び、錆びた金属製の道具の柄を掴む。床の上を滑って自分の方に来た骨ノミを、ビクターは拾いあげる。

「すまんな」ビクターは手術道具をぬぐうと、再び腕の手術を続けた。

ビクターの耳に、少年の荒い呼吸が聞こえた。

「ねじれた屈筋腱を交換しているところだ――つまり、手首の故障した機械部品をだ」ビクターはそう言って、ネジの締まりを調整しようと腕に手を伸ばした。「見たいか?」

少年は荷箱の陰から首を伸ばした。

「それ、痛くないの?」

「痛くない」ビクターは答えた。「苦痛に対する不安と恐怖を克服した者にとっては、十分耐えられるものだ」

「そ、そうなんだ」

「さらに言えば、私の腕はほぼ完全に機械化しているからな。自分で見てみたまえ」

少年は荷箱の陰から出てきて、ビクターの対面に座った。一言も発せず、ビクターの腕に目を釘付けにしたまま。

ビクターは新しいボルトドライブを皮膚の下の腱に接合する作業を再開した。それが完了すると、観音開きになっていた腕の真皮を元通り縫合する。それから光のビームで縫合部をなぞり、肉を焼灼して切開部を融着した。

「なんでそんなことするの?」少年は尋ねた。「腕が“うまく”動かなくなったから?」

「人間の最大の弱点を知っているか?」

「…ううん」少年は答えた。

「人間は現状を維持することを良しとして、無限の可能性というものを無視しがちだ」

少年はきょとんとした目でビクターを見た。

「人は変わることを恐れる」ビクターは言った。「“うまく”で満足してしまうのだ。“至高”を目指せるにも関わらず」

ビクターはコンロの方へ向かった。鍋に黒い粉とダンポアクリームを入れて混ぜた後、レーザーでその液体を加熱する。

「スイートミルクはいかがかね」ビクターは言った。「私の弱点の一つではあるが、アニスのフレーバーには目がなくてな」

「あの…ぼくの頭を切り落として、金属の頭と交換したりしないの?」

「ああ。私がそういうことをするという噂が広まっているのか?」ビクターは尋ねた。

「うん、まあ」少年は言った。「ただ咳をしただけで、頭を交換された子供がいるって聞いた」

「その情報は、本人から直接聞いたのか?」

「ううん、隣のバーマのいとこが言ってたって。あれ、おじさんだったかな?ともかくそう言ってた」

「ああ。そういうことか」

「でも、咳って頭を交換したら止まるものなの?」少年は聞いた。

「それはいい質問だ」ビクターは言った。「頭部の交換によって咳の症状が改善するとは考えにくい。咳は肺から生じるものだ、そうだろう。そして先ほどの君の質問に対する答えだが、君の頭を切断して、金属の頭と交換するつもりはない。もちろん、君が望むのなら話は別だが」

「いやです」少年は言った。

ビクターは濃厚な液体を二つのマグカップに注ぎ、その温かい飲み物を熱い視線で見つめていた少年に、片方を渡した。

「薬品は入ってない」そう言って、ビクターは自分のマグカップから一口すすった。少年はスイートミルクをゴクゴクと飲んだ。

「他の子たち、まだ外で見てる?」汚れた歯の少年は言った。

ビクターは虹彩鏡をのぞき込んだ。三人の子供は、まだ正門の前で待っていた。

「そのようだ。彼らを少々驚かせてみるのはどうだ?」ビクターは言った。

少年は目を輝かせ、うなずいた。

ビクターは少年に音声増幅器を手渡した。「これに向かって、ありったけの声で悲鳴を上げるんだ」

少年は増幅器に向かい、芝居がかった、血も凍るような悲鳴を上げた。それはエンバーフリット横町全体に響き渡り、表の子供たちは恐怖に飛び上がると、散り散りに走って身を隠した。少年はビクターに微笑んだ。

「多くの場合、恐怖は不利に働く感情だ」ビクターは言った。「例えばだ、君が怖いと思うものはなんだ?」

「ケミ長者」

「ケミ長者が恐れられているのは、彼らが支配者然とした雰囲気を漂わせ、またよく暴力を匂わせて脅しをかけるためだ。もし誰もケミ長者を恐れないなら、人々は彼らに対して立ち上がるだろう。そうなった場合、彼らはどうすると思う?」

「えぇと…」

「逃げるのさ。それしかできない。ケミ長者の数と、ゾウンの人々の数を比べてみればいい。恐怖は少数の有力者によって、弱者を支配するための道具として使われている――彼らは恐怖がどう働くかを理解しているからだ。相手の感情を操れるというのは、即ち相手を支配できるということなのだ」

「確かにそうかも。それでもやっぱり、ぼくはあいつらが怖いよ」少年は言った。

「当然だ。恐怖のパターンが君の肉体に深く刻まれているからだ。だが鋼鉄には、そんな弱点はない」

ビクターは小瓶を取り出した。ミルク状の液体の中で、微小な銀の粒々が浮かび、たゆたっている。

「その点については、私が力になれるかもしれない」ビクターは言った。「私は恐怖を完全に除去できる身体拡張の開発に成功していてね。君にその気があるのなら、ほんの短時間だけ試してみてもいい」

「短時間って、どのくらい?」

インプラントは20分で分解される」

「ずっとそのままなんてこと、絶対ない?」

「そうすることも可能だが、これは違う。君が恐怖を無くせば、外にいる君の友人たちはもう、君に何もできなくなるだろう。恐怖こそ、いじめっ子の養分なのだ。養分がなくなれば、やせ細るだけだ」

温かい飲み物の入ったマグをぎゅっと持ったまま、少年は考え込み、やがてビクターにうなずいた。ビクターは細い針を小瓶に差し込むと銀の粒を一つ取り、少年の耳の後ろの皮膚に埋め込んだ。

少年はしばし震え、それから微笑んだ。

「自分の弱点が消え去ったと感じるか?」ビクターは尋ねた。

「うん」少年は答えた。

ビクターは少年を玄関まで送り、ダイヤルをひねって開錠すると、手を振って見送った。

「もし、より長時間の効果が欲しくなったなら、いつでも訪ねて来るといい」

研究所から出た少年の周囲に一陣の霧がまとわりつき、不気味な影を作り出す。ビクターは作業台に戻ると、虹彩鏡をのぞき込んで実験の観察を始めた。

エンバーフリット横町に人影はなかったが、少年が研究所を出るや否や、連れの子供たちが姿を現した。

「オレたちへの土産はどこだよ?」赤毛の少年が聞いた。

「ナフのやつ、どうやら約束を守らなかったみたいね」少女が言った。

「それなら罰を与えてやらないとな」大きな少年が付け加えた。「それに、新しい頭をくれてやるって約束してたっけな」

「ぼくにさわるな」精一杯背をそびやかして、ナフは言った。

いじめっ子はナフの首元に手を伸ばしたが、ナフはその顔面に拳を叩き込んだ。

いじめっ子の鼻から血が流れる。

「押さえつけろ!」いじめっ子が叫んだ。

しかし周りの仲間たちは、もう少年を押さえつけようという気にならなかった。

ナフはいじめっ子たちに向かって足を踏み出した。いじめっ子たちは思わず後ずさりした。

「ぼくに近づくな」少年は言った。

いじめっ子たちは顔を見合わせると、きびすを返して逃げ出した。

ビクターは虹彩鏡を閉じると、元の作業に戻った。新たに修理した手をぐっと開くと、満足気にその指で机をリズミカルに叩いて鳴らした。

ジェイスのバイオ・ストーリー(2021.11)

未来への希望
ジェイスはピルトーヴァーを、そしてそのたゆまぬ進歩の追求を守り抜くことに人生を捧げると誓った、天才発明家である。ジェイスは変形可能なヘクステックのハンマーを手に、その腕力と勇気、そして類まれなる知性によって、愛する故郷である街を守るのだ。ヒーローとして街中の尊敬を集める彼であるが、実は注目されることを迷惑に思っている。とはいえ、ジェイスは真っ当な心の持ち主であり、彼の天性の才能を妬む者たちですら、「進歩の都市」を守る彼の存在には感謝している。

ピルトーヴァーで生まれたジェイスは、この都市を偉大なものとする三原則、すなわち「発明」「発見」「必要な場合を除いてゾウンに行かない」を信念に育った。機械に関する知識と天性の感覚を持っていたジェイスは、ピルトーヴァーで最も尊敬されている名家の一つであるジョパーラ一族から、史上最年少でパトロンの申し出を受けるという栄誉を受けた。ジェイスは当然のことのようにその申し出を受けると、その駆け出しの数年のほとんどを、有望なヘクステック装置の製造と、ピルトーヴァーの労働者階級向けの可変式多機能工具の設計に費やした。彼の設計した可変式工具には、バールに変形するレンチ、シャベルに変身するつるはし、そして十分に強力なバッテリーさえあれば破壊ビーム砲になるハンマーなどがある。ジェイスが関わったあらゆるものが、同時代の同業者たちを恥じ入らせるほどの傑作となった。

ジェイスはほとんどあらゆるものを簡単に理解できたが、同僚たちがなぜ(彼にとっては)単純極まりないコンセプトに四苦八苦するのかは理解できなかった。そのため、ジェイスと一緒に働く者たちの多くが彼を、傲慢で上から目線で、チームワークを無視して一人で突っ走るヤツ、とみなした。時が経つにつれ彼は次第に短気になり、それと同時に礼節と魅力も欠けていき、彼本来の物腰とのギャップは大きくなっていった。

ジェイスに匹敵する知性を持ち、なおかつ彼の傲慢な態度を平然と受け流せる者は、たった一人しかいなかった。

彼の名はビクター。

出席が義務付けられていた「進歩の日」のパーティで二人は出会い、その席を全く楽しんでいない者同士、たちまち意気投合した。程なくして、二人は共同で働き始めた。ビクターはジェイスの知性の地平を押し広げ、彼の仮定の多くに反論を行った。ジェイスが万能の技術によって人類を啓蒙する道を探している一方で、ビクターは人間そのものが持つ問題――例えば肉体の衰えや非論理的な偏見――を解決する道を探していた。二人はことあるごとに議論を戦わせたが、その対立が個人的な恨みに発展することは決してなかった――手法は異なっていても、二人は互いの究極の目的が全く同じものであるとわかっていたからである。さらに加えて、仲間から排斥されるのがどんなものなのかを、二人ともよく知っていた。ビクターはその型破りな考え方のせいで、そしてジェイスはその礼儀の無さのせいで。

ジェイスとビクターは協力して、ピルトーヴァーの港湾労働者のために、機械化された建設作業用スーツを発明した――着用者の筋力を増幅する一方、海に落ちてもすぐには溺死しない程度に軽い優れものである。しかし、ビクターが設計した新バージョンを巡って、二人は決定的な対立に陥った。その新バージョンにはケミテック・インプラントが内蔵されており、その効果は着用者の筋力を10倍に高め、さらには疲労せず、パニックを起こさせず、監督者の指示を絶対に守らせるというものであった。ビクターはこの機能を、建設現場での事故を減らせる画期的なものだと考えたが、ジェイスはこれを、自由意志を損なわせる非倫理的なものだと考えたのだ。この設計を巡って二人は取っ組み合いの大喧嘩をする直前まで反目した。最終的にはジェイスがビクターの発明についてアカデミーに警告し、ビクターが全ての名誉を奪われ、ピルトーヴァーの科学コミュニティから排斥されるに至った。

ビクターはジェイスにとって「友」と呼ぶのに最も近しい存在であり、その彼との仲違いに打ちひしがれたジェイスは、また独りで発明に没頭した。彼はますます狭量になり、他人への寛容さもさらに少なくなった。

ジェイスが孤独に研究していたその頃、ジョパーラ一族の探検隊がシュリーマ砂漠の奥地で青いクリスタルの原石を発見した。ジェイスはその原石の調査を希望した(具体的には、自分以外の同僚の研究者は何か発見できるほど賢くないと仄めかした)が、ジョパーラ一族はその傲慢な態度を良しとせず、彼に対する一種の懲罰として、他の礼儀正しい学者達をその任務に当てた。そうして何か月もが過ぎ去った後、学者達は満場一致の結論を出した――クリスタルには何の価値もない。力を吸いつくされた岩の塊に過ぎない、と。失望した一族の指導者達は、とうとうクリスタルをジェイスに預けることにした。卓越した知力を持つ彼をしても、そこから何かを見出すことはあるまい、と考えて。

クリスタルの中から、何かがジェイスに呼びかけた。いや、それどころか――歌いかけた。ジェイス自身にも説明はできなかったが、このシュリーマの宝石にはまだ謎が隠されていることを悟った。

彼は何か月もかけて、クリスタルに対しあらゆる試験を行った。歯車式遠心分離機で圧をかけてみた。超高温や超低温にしてみた。試験し、観察し、仮説を立て、銅製の製図機を相手に無駄な努力を続けた。単純に言って、ジェイスは熱心に働くことに慣れていなかった。このクソッタレのクリスタルは、大いに聡明なる彼の精神でも理解することが適わない、初めての存在だった。問題を解決するためにひたすら努力を重ね、それでも自分の限界という壁にぶち当たるだけだった時に、自分の同僚達がどんな気分を味わったかを、生まれて初めて理解することができた。何たる不愉快。何たる不公平感。

ましてやそれを、自分の努力を鼻で笑う、傲慢な発明家と一緒に働いている時に味わわされたとしたら。

ジェイスは思い知った。どれだけ自分に見下されても、仲間の学者達は誰一人として、決して諦めることはなかった。誰一人として、ピルトーヴァーの要たる「進歩と発見」の追求を投げ出したりはしなかった。彼らが諦めないのなら、自分も諦めることはできない――ジェイスはそう決めた。

それと、多分、もう少し愛想よくしてもいいかもしれない。

多分。

ジェイスはこの問題に、全く違った角度からアプローチしてみた。このクリスタル全体に対してではなく、小さなかけらを使ってもっとアグレッシブな試験を行ってみては?ジェイスはクリスタルからほんの小さなかけらを削り取り、液状の合金の水槽に浮かべてみた。その液体金属に電流を流した途端、ジェイスの鼓膜は破裂しそうになった。かけらから重低音が大音量で発せられたのである。クリスタルからは熱が放射され、その閃光は失明しそうなほどだった。全くの予想外。大いに危険を孕んでいるが、これは間違いなく進歩だった。ジェイスは一晩中、夜が明けるまで作業を続けたが、その間、顔がにやけるのを止めることはできなかった。

その翌日、ジェイスは戸口に現れた旧友・ビクターを見て驚いた。クリスタルのかけらが発する膨大な力に警戒しながら、ビクターは単純な提案をした。

ピルトーヴァーの科学コミュニティから追放された後、ビクターはゾウンで極秘プロジェクトを開始していた。彼はついに、夢を実現する方法を――病を、飢えを、憎しみを消し去る方法を、見つけ出したのだ。ジェイスの協力があれば、二人はピルトーヴァーやゾウンの誰もが夢見た以上のことを実現できる。そう――人類を、人類自身から救うのだ。

ビクターのこうした演説をジェイスは以前にも聞いていたが、その目標を好きになれたことは一度もなかった。

ビクターはジェイスに、彼の光輝なる進化――「グロリアス・エヴォリューション」のために必要なのはあと一つ、ジェイスのクリスタルのような動力源だと伝えた。しかしジェイスはそれに応じず、ビクターに本当に必要なものは道徳的価値観だと言い返した。ジェイスの無礼さにほとほとうんざりしていたビクターは彼に飛び掛かり、クリスタルをひったくるとそれでジェイスを殴りつけ昏倒させた。数時間後にジェイスが目覚めた時、シュリーマのクリスタルは奪われたものの、ビクターが気づかなかったか、あるいは単に無視されたか、小さなかけらはその場に残されていた。

ビクターが何を計画しているとしても、それらが必要になるのは完成目前に限られるとジェイスにはわかっていた。ビクターの「グロリアス・エヴォリューション」が何で出来ているにせよ、おそらくは他人の自由意志を大いに尊重するものではないだろう。ジェイスはすぐさま残されていたかけらを回収すると、巨大な可変ハンマー――十分な出力のバッテリーがなかったため何年も前に放置していた、解体工事用の発明品――に組み込んだ。ビクターがクリスタルをどこに持ち去ったかは見当もつかなかったが、ジェイスはヘクステックのハンマーが振動し、彼を導いているのを感じた。北でも南でも、東でも西でもなく、下、つまりゾウンの地下都市へと。

クリスタル本体と再び一つになろうとして、かけらはついにジェイスを汚水地区の奥深くにある倉庫まで導いた。そのがらんとした建物の中で、ジェイスは恐るべきものを目撃した。頭蓋骨が切開され空っぽになった、数十体の死体。それらの脳は身動き一つしない金属製の兵士の軍団に移植されており、そして兵士たちは明滅するクリスタルと接続されていた。

これがビクターの「グロリアス・エヴォリューション」の第一歩だった。

ビクターに近づきながら、しかしジェイスの歩みには躊躇いがあった。これまでも二人の意見が一致することはあまりなかったが、今回は完全に状況が違う。この時初めて、ジェイスは旧友を殺さなければならない可能性を考えた。

直立するロボット軍団にしり込みしつつ、彼は大声でビクターに呼びかけた。ジェイスはビクターに周りを見てみるように言った――なにをしているのか分かっているのか、と。これが――エボリューションとやらが――何かは知らないが、若い頃二人で競い合った進歩では断じてない。さらには、ビクターさえ驚いたことに、ジェイスは自分の傲慢な振る舞いを謝りさえした。

ビクターはため息をついた。その返答は一言だけだった。「奴を殺せ」

自動人形達は自身とクリスタルをつなぐワイヤーを断ち切ってジェイスに殺到し、ジェイスに新たな感情、即ち「パニック」を目覚めさせた。ハンマーを握りしめながらジェイスはその時気づいた、まだ一度もこれをテストしていなかった、と。攻撃範囲内に最初の敵が入ったその時、ジェイスは力任せにハンマーを振り回した。かけらの発するエネルギーが筋肉を駆け巡り、その力はハンマーが飛んでいってしまうのでは、というほどだった。

ハンマーに当たった兵士は無数の金属片へと砕け散った。だが仲間が破壊されたのを目の当たりにしても他の兵士達は一瞬たりとも足を止めることなく、文字通りの鉄拳を叩き込もうとジェイスに襲い掛かる。

ジェイスは襲い来る兵士達の攻撃パターンを分析し、最小数のスイングで最大数の敵を片づけるための計算を試みた。しかしそれは全くの無意味だった。ハンマーをもう一回振り回すより早く、敵はジェイスに手が届く範囲に来ていた。無数の拳の嵐に打ち倒されたジェイスは、勝利に昂ぶるのではなく、悲しげに自分を見つめるビクターを見た。彼はジェイスとの対決に勝った、人類に輝かしい未来をもたらすのはジェイスではなく彼なのだ、だがその代償として、彼は旧友を生かしておくことはできないのだ。ジェイスは振り回される金属製の四肢の渦に飲まれていった。

この時生まれて初めて、ジェイスは考えるのを止めると、ただひたすらに破壊の衝動に身をゆだねた。

もはや自分の安全すら気にすることなく、ジェイスはビクターの兵士達から逃れるため持てる力の全てを振り絞った。輝くクリスタルまで全力疾走し、ヘクステックで増幅されたハンマーの最高出力を叩きつけ、神秘の結晶を粉砕したのだ。

ビクターが恐怖の叫びを上げる中、クリスタルは粉々に砕け、発生した衝撃波はその場の全員を吹き飛ばし、機械兵士の軍団は力なくその場にくずおれた。倉庫の地盤そのものが揺れ動き、崩壊する建物の中からジェイスはかろうじて脱出した。

ビクターの死体は見つからなかった。

ピルトーヴァーに戻ったジェイスは、一族の長達にビクターの恐るべき計画について報告した。ほどなく、ジェイスは自身がゾウンとピルトーヴァーの両方で時の人となっていることを知る。未曽有の危機への適切かつ迅速な対処を讃えられ、ジェイスは一躍人気者となり(少なくとも、直接彼を知らない人々の間では)、「未来への希望」というニックネームで呼ばれるようになった。

同胞たるピルトーヴァーの人達からの崇拝などどうでもよかったが、ジェイスはそのニックネームを自分の心に刻んだ。ビクターはまだどこかに潜んでいて、復讐計画を立てているのだ。いつの日か――おそらく近いうちに――恐るべき災難の数々がピルトーヴァーに襲い来るだろう。

そしてジェイスはその全てに立ち向かうのだ。

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応急処置
どんな間抜けでもいつかビクターが逆襲しに来るだろうと予想できる。間抜けではない者ならば、逆襲が行われる精確な日時を予測してのけるだろう。

そしてジェイスは間抜けではなかった。

自分の工房にすっくと立ち、天窓から差し込む太陽の光を浴びる彼は、自ら創造した天才的発明品の数々に囲まれていた。どんな表面にもピタリとくっつく歯車式ブーツ。あらゆる工具にいつでも手が届くよう、多関節の腕が生えたナップサック。

だがこれらの天才的発明品よりもなお偉大な創造物こそ、ジェイスが両手で構えている武器だった。シュリーマ産の秘石のかけらを動力源とするその可変式巨大ヘクステックハンマーはピルトーヴァー中に名を轟かせているが、ジェイスはそれを工房の他の工具と同然に、軽々と手から手へと投げ渡していた。

工房の扉に三回、鋭いノックが響く。

来たか。

ジェイスはこの日のために備えていた。破棄されたビクターの兵士達を相手に実験を行っていた。機械同士の通信を傍受していた。今にも、ヤツらは入り口のドアを破り、ヘクステックのハンマーを奪い取ろうとするだろう。そして、彼の頭蓋骨にも同じことをしようと試みるだろう。「試みる」、文字通り。

ハンマーの柄に付いているスイッチをキャノンモードに切り替える。ジジジとエネルギーが走り、頼もしいジェイスのハンマーの先端がヘクステックブラスターに変形した。

彼は狙いを付けた。

一歩も引かない。

ドアが開く。トリガーにかけた指に力がこもる。

そうして彼は、危うく七歳の少女の頭を吹っ飛ばすところだった。

小さな、ブロンドの髪をした、誰が見ても可愛いと思うような少女だった。ジェイス以外の者ならば。少女はドアを押し開けると、もじもじとためらいがちに部屋に入ってきた。ジェイスに近づく歩調に合わせ、ポニーテールが右に左にと跳ねる。ジェイスの視線を避けるように、うつむいたまま。彼女がなぜ目を合わせようとしないのか、ジェイスは二つ仮説を立てた。1、スーパーヒーローを前にして緊張している。2、彼女はビクターの手先で、ケミ爆弾で不意討ちしようとしている。彼女の顔の紅潮から判断するに、どうやら前者が正解らしい。

「へいたいさんがこわれちゃったの」そう言って差し出したのは、ぐにゃりとした金属製の騎士で、その腕はあり得ない角度で後ろ向きにねじ曲がっていた。

ジェイスは動かなかった。

「出て行くんだ、さもないと死ぬぞ」

子供が彼をじっと見る。

「それに、俺は人形の修理屋じゃない。もっとヒマな奴に頼むんだな」

少女の目にじわっと涙が湧き出してくる。

「しゅうりやさんにはらうお金もってないの、それにマ…」すすり泣きで息を詰まらせる。「ママが作ってくれたの、しぬまえに、それに…」

ジェイスは眉をひそめ、そしてしばらくぶりに、まばたきした。

「そんなに大切なら、どうして壊したんだ?」

「わざとじゃないもん!しんぽの日のおまつりにつれていったの、そしたらだれかが私にぶつかって、おとしちゃったの。おうちにおいてくればよかったのに…」

「…そうだな、家に置いておくべきだったんだ。バカなヤツめ」

少女は口を開きかけ、そしてやめた。ジェイスはこういった反応なら散々見てきた。彼と会った連中のほとんどが、不屈のヒーローである彼と伝説のハンマーにまつわるうわさ話の数々を聞いていた。彼らは崇高な人物を期待していた。そして謙虚な人物を。彼らがジェイスに期待する人物像は、尊大な根性曲がりではなかった。そして、彼らは必ず失望するのだった。

「きげんがわるいの?」少女は尋ねた。

「性格が悪いとはよく言われる。昔からな」何の躊躇もなく彼は答えた。

子供は眉をひそめた。彼女は人形を彼に突き付けた。

「なおして。おねがい」

「どうせすぐまた壊すさ」

「こわさないもん!」

「いいか、」ジェイスは言った。「嬢ちゃん。俺はすごく忙しいんだ、それに――」

何かが天窓の上を横切り、ジェイスと少女に一瞬影を落とした。他の誰かであれば、鳥か何かが通り過ぎたんだろう、とでも考えただろう。だがジェイスにはわかっていた。一瞬黙り込む。危険な笑みが顔中に拡がり、ジェイスは少女を作業台の下に引っ張り込んだ。

「ポイントは」ジェイスは言った。「機械ってやつはものすごく単純、ってことだ」

彼は大きな薄い銅板を持ち上げると、その四方の角を素早く打ち据えた。「ヤツらは個別のパーツで出来ている。明確かつ予測可能な方法で組み立てられ、組み換えられる」銅板をリズミカルに叩き続けると、やがて滑らかなドームの形に打ち出した。

「人間はもっと複雑だ。感情的で、予測不能で、それと――ほとんどの場合――俺ほどは頭がよくない」そう言いながら、ドームの頂点にドリルできれいな穴を開ける。「普段はそれが問題になる。だが時には、ヤツらのマヌケさがこっちの有利に働くんだ」

「それ、まだわたしのお人形のはなし?それとも――」

「ヤツらは時々、自分達が不利なことさえ見落とすんだ――復讐に躍起になり過ぎてな――それでバカなミスを犯す」ピカピカの銅の丸棒をつかむと、それをドームの中央にネジ止めした。

「人間は時々、一番大切なものを守ることに失敗する」そう言って少女のブリキの兵隊をあごで示した後、ジェイスは完成したばかりの金属製の傘を高く掲げた。「そしてバカなミスってのは時々、俺の工房の入り口から確実に襲撃してくればいいものを、わざわざ…」

ジェイスは上を見た。「…ど派手なアプローチを選ぶことを言うんだ」

少女に傘を手渡す。それは、掲げておくのに少女が全力を振り絞らなければならないほど重かった。

「しっかり持ってろ。動くなよ」

少女は返事をしようと口を開いたが、天窓が割れたことに驚いた悲鳴しか出なかった。ガラスの破片が急ごしらえの傘の上で雨粒のように跳ねるとともに、数人が床に飛び降りて来た。その首の付け根からは明るい緑色ののケミチューブが延び、四肢へとつながっていた。連中の目はドロリと濁った死人のもので、顔は一切無表情。間違いなくビクターの手下どもだ。ゾウンの汚水溜めの階層に棲むヤク中のゴロツキどもで、ビクターに幻覚剤と催眠薬をしこたまキメられてやがる。本人が望むと望まないとに関わらず、ビクターのどんな些細な命令にも従わされる、ケミ漬けの殺し屋ども。ジェイスが予期していたのは機械兵士だったが、ピルトーヴァーに気づかれないようにそれらを数多く調達することが、ビクターには不可能だったのだろう。とはいえ、ケミ漬けの雑魚どもだって十分に脅威だ。連中がジェイスと少女の方を向いた。

だがヤツらが二人に手を伸ばす前に、ジェイスのヘクステックブラスターが電撃を発射していた。ヘクステックの力で発生し、コアから射出された雷球は、敵集団の真ん中で炸裂した。雑魚どもは、工房のシミひとつない壁に叩きつけられる。

「ハッ、奇襲は失敗だな、ビク――」

気絶した鉄砲玉達が折り重なって倒れたそののど真ん中に、そびえ立つ巨体の機械が飛び降りた。こいつは――ジェイスは思った――ミノタウロスと、建物が合体したみたいな怒り狂った巨大なバケモノだな。

「あぶない!」少女が叫んだ。

ジェイスはあきれて目をぐるりと回した。「危ないなんてこたぁよく分かってる。慌てるな。俺はちゃんと状況…おウッ!」話の途中で、金属製のバケモノはジェイスの胸に体当たりしていた。

そのバケモノの一撃は、ジェイスを猛烈な勢いで後ろに吹っ飛ばしていた。ジェイスは台車の上に着地し、その衝撃で背骨が軋んだ。

うめきながら立ち上がったジェイス目がけて、バケモノが再び突進する。

「二度と俺に指一本触れさせねぇぜ」

ジェイスは武器を全力で振り回しながらハンマー形態に変形させた。ミノタウロスは頭を低く構え、再びジェイスを撥ね飛ばそうとしたが、愚かにもハンマーの振られる方向を見ていなかった。

轟音を立てて、ハンマーが真正面から獲物を捉えた。ミノタウロスは頭を金属の首の中にめり込ませ、どうと地面に倒れた。その残骸から蒸気が音を立てて漏れ出し、もうもうと雲を作っていく。

ジェイスは再びハンマーを構え、次の攻撃に備える。天窓を見上げた。そして数分が過ぎた。どうやら襲撃は終わったらしい、とジェイスは結論付けた。

作業台の方に戻ろうとしたものの、苦痛に膝をつき、胸を押さえた。少女がそばに駆け寄ってくる。

「ぶつかったところが、まだいたいんでしょ?」

「そうだな」

「だったら、よければよかったのに」少女は言った。「ばかなひとね」

ジェイスは眉毛を吊り上げた。少女は目を見開き、怒らせてしまったのかと不安になる。ゆっくりと、ジェイスの顔に笑みが拡がる。

「お前、名前は?」

「アマランサイン」

ジェイスは作業台に腰を下ろし、ドライバーをひっつかんだ。

「人形をよこしな、アマランサイン」

少女の顔が満面の笑みに変わる。「なおせるの?」

ジェイスはニヤリと笑ってみせた。

「俺に直せない物なんかありゃしねぇよ」

ハイマーディンガーのバイオ・ストーリー(2021.11)

誉れ高き発明王
聡明だが変わり者であるヨードルの科学者、セシル・B・ハイマーディンガー教授はピルトーヴァー史上最高の革新的な発明家の一人と称賛されている。彼はノイローゼのように自分の研究に没頭しており、研究のためなら禁忌もなく、同世代の研究家たちが何十年も敬遠していた神秘に魅せられ、この宇宙の最も不可解な謎を解いてきた。彼の理論は往々にして不明瞭で難解に見えるが、ハイマーは知識は共有されるべきであり、望む者すべてに教授されるべきだと考えている。

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セシル・B・ハイマー教授の研究日誌より
10月14日

09:15

バンドルシティの現在の気象条件は理想的。本日の実験にうってつけの大気圧である!

本日午後、トライディミニュモビュレーターの5回目の実験を敢行。一部微調整が必要。ヒゲが焦げてしまった。エネルギー処理量要調整。

16:00

未だにトライディミニュモビュレーターのエネルギー効率が理想値を維持できず!再計算の必要あり。それはそうと、極めて興味深い発見があった。

本日の実験から帰宅中、若いヨードルの一団が球形飛翔体を投げ合っているところに遭遇。コンセプトは単純明快である。一方がその物体を投げ、もう一方がそれをつかんで投げ返し、これを繰り返す。もっとも、計算ミスによる取り損ねが何度もあった。ヨードルたちの投球精度は不安定である上、出力もバラバラであったため、「ボール」(彼らはそう呼んでいた)は何度も地面に落下するのだ… このプロセスの改善策はいくつも考えられる。計算上では参加者から収集したデータをもとに、投擲速度および軌道の一貫性を維持できた場合、この遊びの満足度は44.57%増加する!今夜は本件について熟考しよう。

10月15日

05:20

エウレカ!我、解決法を見つけたり!

自動ボール投げ機を開発したのだ。現行名称をH-28Gとする。このマシンでなら一定の速度と軌道でボールを投擲し、キャッチ側は決してボールを取り損ねることがない。ボールはオート制御で軌道修正し、射程内の最寄りのヨードルに投げ返されるので、皆に順番が回ってくるようになっている。今から早速ヨードルたちの前で、この発明品を実演してこよう。

追記。今朝、靴の上に毒性の酸をこぼしてしまった。実に面倒だ。

10:30

自動ボール投げ機を試験運用するも、計算通りには機能せず。若いヨードルたちは我が発明に大喜びだったが、いざスイッチを入れてみると威力がありすぎ、最小出力モード時ですら、ボールをつかんだヨードルが吹っ飛んでしまうほどだった。問題は明白。ヨードルたちの投球速度を過大評価してしまったようだ。今すぐ持ち帰って調整せねば。

もとい、現時点ではトライディミニュモビュレーターの改良を優先しよう。昼までに不具合を修正し、どこか別の実験地を探さねばなるまい。バンドルシティは屋外実験には不適格であることが分かった。

10月16日

15:55

街に巨人が現れたらしい。実に苛立たしい異常である。こう騒がしくては研究に集中できん!

今日は水槽を確認せねば。このところ、魚たちが妙に静かだ…。

10月17日

10:40

どうやら巨人騒動のせいで、多くのヨードルが負傷したらしい。早急な事態改善が見られない場合、介入もやむをえまい。H-28Gは無事だろうか。一から造り直すとなったら、膨大な時間を失ってしまう。

16:30

再び、すべてが静かになった。巨人が正気に戻って逃げたようだ。明日、H-28Gの回収に向かうが、その前に喫緊の課題を解決せねば。トライディミニモビュレーターの完成は近い!

10月18日

08:30

今日は朝から色々なことが起きる。まず、我が家の玄関をノックする者がいて驚いた。街の全員が押しかけてきたようだった。こういう時はたいてい、我が研究に対するくだらない苦情の申し立てなのだが、どうやら今朝は違うようだ。彼らは感謝しにきていたのだ!

驚いたことに、一人の若いヨードルが、巨人騒動のあおりで放置中だったH-28Gプロトタイプを有効活用したらしい。このイマジネーションあふれるヨードルは、我が発明品を間に合わせの砲台に転用し、ものの見事に巨人を追い払ってみせたのだ。素晴らしい!まさに小さな天才である。

近い将来、彼のその発明家的頭脳を借り受けたいものだ。我が壮大な計画にとって有能な助手になってくれるはずだが… それにはバンドルシティを出なければならないだろう。計画の規模からして、より広大な実験場が要求される。

ルーンテラ全土なら充分だろう!

エコーのバイオ・ストーリー(2021.11)

エコー
砕けた時を渡る少年
生まれつき天才的な知力を持っていたエコーは、ハイハイをするより前に、簡単な機械を組み立てることができた。両親のインナとワイエスは、息子には明るい未来を与えようと誓った──公害と犯罪に満ちたゾウンでは、エコーの才能は無駄になってしまう。息子にはピルトーヴァーの豊かさと可能性に満ちた暮らしが相応しいと二人は考えた。エコーは、両親が危険な工場での長時間労働に日々勤しみ、実際の年齢以上に老け込んでいく様子を見て育った。欲深い工場のオーナーや、せせら笑いを浮かべたピルトーヴァーの買い手たちが、彼の両親の働きから多大な利益を得る一方で、一家はわずかな給料しかもらえない。

全ては息子を地上の都市へ送るためだと、両親は自分たちに言い聞かせていた。

だが、エコー自身は別の見方をしていた。彼は欠点より何より、ゾウンに情熱と可能性に溢れかえった活気を見出していた。ゾウンの人々の勤勉さや機知、そして粘り強さが、純粋な発明の苗床を生み出している。普通なら滅亡していたような大災害の後で、彼らは活力に溢れた文化を作り上げてみせた。そのゾウンの精神がエコーを虜にし、幼い彼を駆り立てて、発明と技術革新に夢中にさせたのだ。

彼のような子供は他にもいた。肝の据わった孤児たちや、好奇心旺盛な家出した少年少女たち、そして野心あふれる成り上がり者とエコーは友達になった。ゾウンの人々の多くは学校教育よりも徒弟となる方を選ぶが、彼らのような「ゾウンのストリートチルドレン」は、迷宮のような街並みがその代わりだった。彼らは国境市場を突っ切る徒競走をしたり、最下層からプロムナードまで登ることに挑戦したりして、若さに任せて有り余る時間を浪費した。彼らは誰の指図も受けず、滅茶苦茶に、そして自由に走り回った。

ある夜、破壊されたばかりの研究所のガレキを漁りに一人で出かけたエコーは、驚くべきものを発見した。それは、魔法のエネルギーできらめく青緑色のクリスタルの欠片だった。ゾウンの子供なら誰でも、数々の武器や英雄に力を与えたというヘクステックの話を知っている。世界を変える可能性を秘めたクリスタル。その欠片をエコーは手に入れたのだ。彼は欠片をもっと見つけようと必死になったが、テクノロジーで強化改造された用心棒たちの足音が聞こえ、欠片を探しているのは自分だけではないことに気付いた。エコーは辛くも逃げ出して家に帰ることができた。

彼は持ち帰ったクリスタルを使って取り憑かれたように実験を重ねた。そして、あまり科学的とは言えないある実験の最中に宝石が爆発すると、きらめく微粒子の螺旋となって時空歪曲の渦を発生させた。エコーが目を開けると、そこにはガラスのように砕け散らばった複数の現実世界が見え、そしてバラバラに断たれた連続性の只中でパニックに陥った自分の「エコー」──つまりは自分自身たちが、そこからこちらを見つめ返していた。

実験は成功したのだ。

その後、エコーと「彼のエコーたち」による綿密な共同作業によって、彼が引き裂いてしまった「現実」を修繕することに成功した。最終的に、エコーは砕けたクリスタルの時間的能力を制御し、ごく短い単位の時間を操作できる装置を作り上げた…少なくとも理論上は。

エコーの命名日に、友人たちがオールドハングリーのボロ時計を登ろうと誘い出した。そこでエコーはテスト前の装置を持って出かけていった。

ストリートチルドレンたちは塔を登り始め、たまに止まっては著名なピル公の悪意に満ちた似顔絵を一つ二つと落書きしていった。だが頂上近くまで来たそのとき、手をかけていた場所が崩れ、エコーの仲間の一人が塔から滑り落ちてしまった。本能的に──そして以前に千回も同じことをしたかのように──エコーは装置を作動させた。彼の周囲で世界がバラバラに砕け、エコーは渦巻く時間の粒子の中を潜って時の流れとは逆に、過去へと引き戻されていった。

そうしてエコーの時は戻り、再び仲間が腐った木材に手を伸ばしているのが見えた。木材がへし折れ、少年が転落する…しかし今回はエコーの準備ができていた。彼は時計台の端に滑り込むと、友人のシャツを掴んだ。エコーは友人を安全な所へ放り投げようとしたが、彼は時計塔の歯車に引っ掛かってしまっていた。そして──

停止。巻き戻し。

何度かやり直した後、ようやく友人の命を救うことができた。しかし彼の仲間たちの目には、エコーの超人的な反射神経が、誰も予期していなかった危険に反応して友人を救ったかのように見えた。エコーは彼らにクリスタルについて話し、秘密を守るよう誓わせた。だが彼らは、エコーがいればどんな危険からも救われると知り、これまでとは比べ物にならないほど愚かな挑戦をするようになった。

それらの試練(そして無数の失敗)を乗り越えるたび、エコーが「ゼロ・ドライブ」と名付けた時間歪曲装置の動作はより安定していった。ただし、それを繰り返すたびにエコーは体力を消耗するため、できることの限界は存在した。

エコーの時間歪曲を駆使したおふざけは、ゾウンとピルトーヴァーにおいて最も独創的かつ危険な権力者たちの関心を引いた。しかし、エコーの関心は仲間と家族、そして故郷の街のみに向けられている。エコーは愛する故郷の街が、いわゆる「進歩の都市」さえ霞ませるほどビッグになることを夢見ている。何世代にも渡る特権からではなく、純粋な挑戦心によって生み出された、ゾウンの卓越した創造力と尽きることのない活気が、ピルトーヴァーの金ぴかの虚飾を色褪せさせる時を心待ちにしているのだ。それを実現させる計画はまだできていないが、彼には時間が余るほどにある。

第一、過去を変えることができるエコーのゼロ・ドライブがあれば、未来を変えることの何が難しいというのだろう?

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子守唄
その日は一週間くらいに長い一日だった。

たとえでもあり、文字通りの意味でもある、エコーにとっては。何もかもが滅茶苦茶になり、あるべき形に戻すのは永遠の苦労の連続だったのだ。最初は、アジュナが「腹ペコ爺」を登ろうとして死にかけたこと。エコーに憧れ過ぎていた年下の少年がエコーのようになるため汚水溜めのど真ん中にあるその時計塔の側面をよじ登っていたのに友人たちが気づいた時には、もう手遅れだった。命取りになるところだったのは、最初の難しいジャンプだった。というか、なっていた、エコーがゼロ・ドライブを起動していなければ。実に18回、エコーは血も凍るような少年の叫びを、命が真っ逆さまに落ちていく反響を聞いていた、彼が命を落とすのを防ぐためにどの時点でどこでどうやって手助けすればいいかを突き止めるまでに。

それから、クラン・フェロスのお手付きになってるスクラップ置き場でジャンクパーツを漁ってた時には、特に攻撃的なヴィジルノートの一団に取り囲まれた。強化部品をゴテゴテと体に組み込み、生まれつき以上にブサイクになったデカ物ども。エコーは連中のスピードに驚かされたが、連中の殺しの作法にはそれほど驚かなかった。やつらの慈悲とかそういう感情のバックアップは人間同士のためのもので、エコーのような汚水溜めのカモに対しては作動しないのだ。絶体絶命の窮地から逃れられたのはゼロ・ドライブあってこそだ。何十回か巻き戻した後、方針を変えて新しいオモチャ「フラッシュバインダー」を試してみることにした。起爆すると閃光と共に、周囲のものを爆心に向かって吹き飛ばす、いや引き飛ばすようにできている、はずだった。

フラッシュバインダーは作動しなかった。設計通りには。起爆、そして興味深い現象が始まった。他の多くのエコーの発明品の爆発とは異なり、青熱する魔力の炸裂は、爆発の瞬間で凍り付いていた。震央からは青くうなるエネルギーのトゲが何本も突き出していた。円盤の無数の破片は致命的な威力で周囲を切り裂いた、カタツムリの這うようなスピードでねじれていくそれらが、通常の爆発の速度で放出されていた。閃光そのものさえ、空中に浮かぶ凍り付いた光の玉だった。

そして現象はさらに興味深い反応を見せた。爆発が爆縮し、破片が組み合い、放物線を精確に逆になぞりながらエコーの手のひらに収まったのだ、無傷のフラッシュバインダーが、そもそも起爆していなかったとでも言うように。

こいつはクールだ、エコーは思った。その瞬間を巻き戻しては、ヴィジルノートめがけて再び投げるのを何度か繰り返した。科学のためだ、もちろん。

家に帰り着いた時には、体は疲れていたが、頭は冴えていた。住居は実に機能的――家具は少なく、装飾は皆無。カーテンで仕切られた片隅がエコーの部屋で、古本の山とジャンクパーツが積まれ、ゼロ・ドライブとフラッシュバインダーの隠し場所だった。今日は珍しく両親が共に早く帰ってくる日で、エコーには話したいことがあった。

「ママ、パパ」筒型をしたゼロ・ドライブの表面に映った自分の顔を相手に、エコーは練習してみた。「オレはアップサイドのクランにも、お高く留まったピルトの学校にも行かない。ここに残るよ、ママとパパと友達のいるここに。オレはゾウンを裏切らないよ」

その言葉は自信に満ちていた、ただ一人この家で、壁と自分の鏡像だけが聞いていたから。そして返事は沈黙だけ。

玄関のドア越しに、カギの音が響く。エコーは大急ぎでゼロ・ドライブをテーブルの下に隠し、黒い布を被せる。この不安定なヘクステックの時間操作デバイスでの火遊びで、両親を心配させたくなかった。

ドアが開き、エコーの両親が帰ってきた――今夜の一回目。息子の目に二人はまるで別人のように映った。仕事に追われた彼らは、最後に二人揃っているところを見てから僅か数週の間で、ますます老けていた。二人の生活パターンはお決まりだった。くたくたになって帰宅し、その日の稼ぎで買った粗末な食事を分かち合い、残ったわずかな小銭を税金と口利き料のために貯金し、椅子に座ったまま寝落ちるのだ、エコーが作業靴を脱がし、肩を貸してベッドに連れていくまで。

二人の目の下のたるみは、その重みで背中が丸くなるほど。母親は両端が撚糸で括られた小さな紙の包みを、大切そうに抱えていた。

「うちの可愛い天才ちゃん」母親は元気な声を出そうとした、疲れ切った体から精一杯のエネルギーをかき集めて。少なくとも、テーブルに着いて待っていた息子を目にした瞬間の彼女の表情は、誰にも真似できないほど明るかった。

「やあ、ママ、やあ、パパ」家族三人でテーブルを囲むのはずいぶん久しぶりのことだった。もっとマシな挨拶があるだろ、そうエコーは密かに自分を責めた。

父親は誇らしげにほほ笑んで、それから息子のモヒカン頭をくしゃくしゃにしながら叱るようなふりをした。父親がこんなに老け込んでいなかった頃の顔、髪が若くして薄くなり、眉間に深いしわが刻まれる前の姿を思い出すのには努力が必要だった。

「髪は切れ、って言ったはずだぞ」父親は言った。「ピルトーヴァーの学校じゃあ目立ちすぎる。こんな髪でも入れる学校はファクトリーウッドだけだ。あそこはどんなバカでも入れる、バカが行く学校だ。そして、お前はバカじゃない。それで、どこに出願するんだ?」

いよいよだ。エコーは練習した言葉を舌に乗せた。だが、父親の希望に満ちた眼差しが、舌を凍らせる。

その沈黙の瞬間を埋めたのは、エコーではなく母親の声だった。

「いいものがあるのよ」母親が茶色い包みをテーブルに置いた。二人は椅子を寄せて、エコーが手を伸ばし、紐をほどき、撚糸をまっすぐにして、きちんとテーブルに並べるのを見た。エコーは厚紙が破れないよう、慎重に包みを開く。香ばしく、甘い香り――ナッツの砂糖漬けを散りばめ、蜂蜜をかけてパリッと焼かれた、小さな菓子パンが出てきた。エリーンのケーキだ。彼女の焼く菓子パンはゾウン一で、お代もそれ相当のものだ。エコーと仲間たちはよく、こんな高級品をためらいもなく買える金持ち連中から、彼女の作ったデザートをくすねたものだった。

エコーの目が両親の顔に走った。二人の目は輝いていた。「高すぎるよ」エコーは言った。「肉とかちゃんとした夕食を買わなきゃ、お菓子じゃなくて」

「お前の命名日を忘れるものか」父親は笑って言った。「お前は忘れてたみたいだな」

今日が何月何日なのか、エコーは完全に失念していた。だとしても、いくらなんでも高すぎるプレゼントだ。特に、両親の願いを裏切ろうとしている今日、この時には。罪の意識が喉元までせり上がってきた。「また家賃が遅れたら、大家にここから蹴り出されるよ」

「それはあたしたちで何とかするわ。あなたにはとっておきの何かがなきゃね」母親が言った。「さあ、お上がり。ケーキをご飯にできるのは、年に一度だけなんだから」

「母さんたちのご飯は?」

「お腹が空いてないの」彼女は言った。

「職場で済ませてきたんだ」父親が嘘をついた。「ピルトーヴァーのチーズと肉でな。実にうまかった」

エコーが一口かじるのを、両親はじっと見ていた。甘くてバターの味がして、手がべたべたになった。味わい豊かで、後味がいつまでも舌に留まった。エコーはケーキを三つに分けようとしたが、母親は首を振って、柔らかい声で朗らかに命名日の歌を口ずさみ始めた。両親とも、このケーキの分け前は遠慮するだろう。これは、エコーへの彼らからのプレゼントなのだから。

椅子に体を沈めてぐったりと寝落ちていなかったなら、父親も一緒に命名日の歌を歌っただろう。エコーが目を戻すと、母親も自分自身の子守唄に、うとうとと眠りに落ちるところだった。

エコーはファクトリーウッドに入るという未来を想像してみた。ぎりぎりの賃金で、どこか別の都市のために、別の誰かの栄華のために働く人生。そんなものは、飲み込めるわけがなかった。赤ん坊の頃に耳にした、両親がささやきあった会話の断片が蘇る。二人の発明と、クラン加入の夢。息子の誕生により白紙になった、世界を改善し、未来に貢献したはずのアイデアの数々。エコーにはわかっていた、自分は二人の最後の希望なのだと。けれど、自分はゾウンでの生活が好きだ。もし自分が両親の願い通りにしたら、一体誰が両親の、そして友達の面倒を見るんだ?

二人の夢をぶち壊しにはできなかった。今夜、自分の命名日には。たぶん、明日なら。

最初の一口をかじったきり、エコーはケーキを食べなかった。代わりにゼロ・ドライブを作動させた。彼の家が無数の色に分解され、混ざり合う。人々の日々の息吹が止み、絶対の沈黙が支配する。砕けた瞬間は光の渦となって、エコーを取り巻いた。

未来のかけらは過去へと組み直され、ドアが開き、エコーの両親が帰ってきた――今夜二回目。そしてこの後、三回、四回、五回、六回、と何度も何度も繰り返されることになるのだ。

巻き戻し、やり直す度、エコーは何一つ変えようとはしなかった。母の目が優しく輝き、父が誇らしげに微笑んでうなずく。ただ、エコーは重くなるまぶたと戦い続けなければならなかった、世界から盗み取った幸せの瞬間を、永遠に放さないために。けれどやがて、母親の柔らかな声が、小さな家の温もりが、エコーを眠りの世界に連れて行った。

その日は一週間くらいに長い一日だった。

ジンクスのバイオ・ストーリー(2021.11)

ジンクス
暴走パンクガール
大抵の人にとって、ジンクスはありとあらゆる危険な武器を振り回す狂人でしかないが、彼女を比較的無害なゾウン出身の少女──周囲から浮いてしまう大胆ないたずらっ子として記憶している者もいる。しかし、どうしてそんな無邪気な子供が凶悪な破壊行為で名を馳せる要注意人物になってしまったのか、その理由を知る者は誰もいない。ともかくジンクスは彗星のごとくピルトーヴァーに現れ、カオスを巻き起こす彼女のユニークな才能は瞬く間に語り草となった。

ジンクスは当初、ピルトーヴァー市民…特に裕福な商人一族と繋がりがある者に対して匿名の“イタズラ”をすることで、その悪名を轟かせていった。それらのイタズラはそこそこ迷惑なものから法に触れるほど危険なものまで多岐に渡り、「進歩の日」には、メイ伯爵の動物園から珍しい動物たちを解き放って市内の通りを封鎖してみせた。街の象徴であるいくつもの橋を、可愛らしい見た目に反して破壊的なパックンチョッパーで埋め尽くしたときには、何週間もの間他国との貿易が中断された。街中のありとあらゆる標識を、はた迷惑な場所に移動したこともあった。

この正体不明のトラブルメーカーが狙う標的もその動機も全くの無秩序に思えたが、しかし彼女の行動は毎回確実に規則正しい街の営みを中断させた。

当然ながら、街の監視官たちは彼女が起こした犯罪を下層都市のケミパンクギャングの仕業だと考えた。自分のサイコーな悪だくみを他人の手柄にされたことが我慢ならなかったジンクスは、今後は必ず人目につくように暴れてやろうと心に誓った。こうして、ケミテック爆薬にサメ型ロケットランチャー、リピーターガンを担いだ青い髪のゾウンの少女の噂はすぐに広まった。しかし、当局はそうした通報は馬鹿げているとして、真剣に取り合うことはなかった。そもそも、たかだかストリートのギャング風情がどうやってそんな強力な兵器を手に入れられるというのだ?

ジンクスの大胆不敵な犯行はとどまるところを知らず、犯人を捕まえようとする監視官たちの試みはことごとく失敗した。新たな「用心棒」としてヴァイが犯罪を取り締まる市警に合流すると、彼女は破壊行為の現場に、ヴァイに向けた派手な落書きや挑発的なメッセージを残すようになった。

ジンクスの評判は広まり、彼女が横柄な「ピル公ども」に痛い目を見せてくれるヒーローなのか、はたまたピルトーヴァーとの緊張をさらに高めてしまう危険な狂人なのか、ゾウンの人々の意見は真っ二つに割れた。

何か月にもわたって続いた非道な破壊行為の後で、ついにジンクスは自身最大の計画について明らかにした。彼女はトレードマークであるショッキングピンクの塗料を使って、ピルトーヴァーで最も厳重に警備された金庫室である「黄道の大金庫」の壁に、ピルトーヴァーの用心棒ヴァイのかなり辛口な風刺画と、詳細な犯行予告を描いたのである。

犯行予定日までの間、ピルトーヴァーとゾウンには奇妙な期待感が漂っていた。多くの者は、ジンクスにはほぼ確実に捕まるというリスクを冒してまで姿を現す度胸はない、と考えていた。

予告された日がやってくると、ヴァイとケイトリン保安官、そして監視官たちが金庫室の周囲にジンクス用の罠を仕掛けた。しかしジンクスは数日前に収められた、硬貨を入れる特大の箱に身を潜め、すでに金庫内に侵入していたのだ。金庫室の内側から大きな爆音が聞こえ、ヴァイはまたもや自分たち監視官が一杯食わされたことを悟った。彼女が中へ突入すると、黄道の大金庫はすでに破壊されてもうもうと煙が立ち込め、陽気な問題児ジンクスの姿はどこにも見当たらなかった。

ジンクスは今でも捕まっておらず、相変わらずピルトーヴァーの悩みの種である。この犯行に触発され、ゾウンのケミパンクの中から多くの模倣犯が現れ、無能な監視官を皮肉る無数の風刺劇が上演されたりもした。しまいには、二つの都市に共通する新しい俗語も生み出された──さすがに用心棒ヴァイに面と向かって“プリティーピンクちゃん”と呼ぶ度胸のある者はいなかったが。

ジンクスの最終目的、そして明らかにヴァイに固執している理由は謎のままだが、一つだけ確かなことがある。ジンクスの犯行はこれからも続き、ますます大胆なものになっていくだろう、ということだ。

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ウェディング・クラッシャー
ジンクスはペチコートが大嫌いだった。

それに、コルセットもだ。だが盗んだドレスの内側と、そのスカートの中の空間に収めているモノのことを考え、ニヤリとした。彼女の長い三つ編みは、ピルトーヴァーの最新ファッションである、バカみたいな羽飾りのついた帽子の下に隠されていた。ジンクスは結婚式の列席者の間を縫ってしゃなりしゃなりと歩きながら、笑顔を張り付けたまま、周囲の死んだ目をした連中の顔目がけて金切り声を叩きつけないようにと気を付けていた。そいつら一人一人の両肩をつかんで揺さぶり、目を覚まさせてやりたいという衝動を抑え込むには、ちょっとした努力が必要だった。

元々ジンクスがここに来たのは、サンドヴィク伯爵のお屋敷の屋上にある天文台をお空に吹っ飛ばすためだったのだが、いざ来てみるとそこはちょうど結婚式の真っ最中…見逃すには勿体なさすぎる、大騒動を巻き起こすには絶好の機会だった。伯爵は、娘のためのパーティーを一大スペクタクルにするのに一切の費用を惜しまなかった。ここにはピルトーヴァーのおハイソなセレブたちが一堂に会していた――主要な財閥の長たちに、花形のヘクステック熟練工、そして太っちょのニコデムスまでも、どうにか招待状を手に入れることに成功したらしい。儀式用の制服を着込んで胸をそびやかせた監視長官は、まるでたっぷりと詰め物を突めこまれたポロみたいで、その煌々と光る両目は広大なるビュッフェテーブルをねっとりと物色していた。小楽団の奏でる音楽が列席者の間を通り過ぎ、そのゆっくりもったりした調べに、ジンクスはあくびを噛み殺した。足を踏み鳴らし、気持ち悪くなるまでぐるぐる回転しながら聞く、ゾウン流の音楽の方が彼女の性には合っていた。

回転するゾエトロープと奇妙な角度のレンズが組み込まれたヘクスルーメンがフロアに投射する、立体映像のダンサーたちがつま先でくるくると回るさまに、生まれてこの方一度も飢えや苦痛や喪失を味わったことのない子供たちがはしゃいで歓声を上げている。パントマイマーや手品師たちは客のグループの間を渡り歩き、指先の妙技を披露して大人のゲストたちを楽しませていた。イマイチだね、とジンクスは思った。ここにいる芸人たちなど、国境市場をうろつく孤児の盗人たちの腕前を目にすれば、身一つで逃げ出すことになるだろう――文字通り。

樫材の羽目板と幾何学模様の銅細工を施された壁には、ピルトーヴァーのお偉方たちの絵が並んでいた。肖像画の男女は、人々を傲慢な軽蔑のまなざしで見下ろしていた。その前を通り過ぎながらジンクスは一人一人に向かって舌を突き出し、彼らが舌打ちをして顔を背けるのを見てニヤリと笑った。色ガラスのはまった窓からモザイク模様の床に差し込むカラフルな正方形の光の上を彼女は陽気にスキップで辿り、ゾウンの百の家族の一か月分にもあたる大量の食事が積み上げられたテーブルに向かった。

お仕着せを着て、何か金色でシュワシュワした飲み物が入ったフルートグラスを乗せた銀のトレイを持ったウェイターが、ジンクスのそばを通りかかった。彼女は両手に一つずつグラスを取ると、ニヤリと笑って勢いよく回転した。グラスを飛び出した泡が近くにいた招待客たちのドレスやフロックコートの背中に染みを作り、ジンクスはクスクス笑った。

「乾杯」彼女はそう言って、両方のグラスの残りを一気に飲み干した。

ぎこちなく前かがみになり、向かってくるダンサーたちのちょうど通り道と重なるよう、二つのグラスをモザイクの床に置くと、即興で作った「ヴァイはウスノロバカマヌケ」の歌の出だしをゲップで奏でた。おハイソな貴婦人たちがジンクスの下品さをあざ笑うと、ジンクスは口許を手で覆い、目を見開いて恥じ入るようなフリをした。「ごめんあそばせ、今のうっかり、わざとやったの!」

彼女はそのままスキップで進み、別のウェイターの皿から奇妙なサカナっぽい何かの料理をひっつかんだ。それを空中に投げ上げて、少なくとも一つは口でキャッチした。いくつかは「上げ底」の胸の谷間に入り込み、彼女はそれを、ヘドロの中から光る何かを見つけ出した汚水浚いのような喜びでつまみ上げた。

「逃げられると思ったの、おサカナちゃんたち!」そう言って、一かけらずつに向かって指を振った。「ざーんねんでした、っと」

ジンクスはそれらを口に詰め込んでから、ドレスの乱れを直した。こんなに胸元が膨らんでいるのは初めてだったし、そこに詰め込んだもののことを考えて笑い出しそうになるのを飲み込んだ。だが急に首の後ろの毛が逆立ち、視線を上げると、その先には広間の端から自分を見つめている男がいた。堅苦しい感じで、ある種ハンサム。フォーマルな上等の衣服に身を包んでいたが、まるで首から「監視官です」と書かれた看板を下げているかのように、あからさまだった。ジンクスはきびすを返し、広間の招待客の集団の奥に紛れ込んだ。

ビュッフェテーブルにたどり着くと、そびえ立つウェディングケーキの雄姿に驚嘆の息を飲んだ。ピンクのフォンダン、ホイップクリームとレース細工のキャラメルで飾られた、砂糖がけの芸術作品。スポンジとジャムと甘い焼き菓子で作られた、テクマトロジーの塔のレプリカだった。ジンクスは手を伸ばし、パンチボウルからレードルを手に取ると、スポンジにトンネルを掘った。くり抜いた部分を床にぶちまけ、レードルをきれいに舐めとると、テーブルの上に放り投げた。何人かの招待客が怪訝そうに自分を見ており、ジンクスは歯をむき出しにして、サイコーに危険な笑みを返した。連中はあたしがイカレてると思ってるかもね。でもそれ、合ってるかも。

ジンクスは肩をすくめた。ま、どーでもいいっしょ。

胸元に手を突っこみ、パックンチョッパー!を四個取り出す。三個をケーキに開けたトンネルの奥に詰め込み、最後の一個をパンチボウルに投げ込んだ。

ジンクスはテーブルの長辺に沿って歩いていき、さらに二個のパックンチョッパー!を取り出して、料理の中に紛れ込ませた。一個は銅のスープ容器に沈み込み、もう一個は子豚の丸焼きがくわえていたリンゴと置き換えられた。胸元の「詰め物」がなくなって、ドレスはかなりダブダブになっていた。そしてドレスの脇のジッパーを下げようとした時、あの監視官だろうと目星をつけていたハンサムが、招待客をかき分けながら一直線に彼女に向かって来るのに気づいた。

「そろそろかなー?」さらに四人、三人は女で一人は男、それぞれめかし込んだ監視官たちが自分に向かって来ていた。「おーっと、お友達も連れてきたんだ!」

ジンクスは背中に手をやり、細いウェストを締め付けているペチコートの結び目を解いた。コルセットが外れるのと一緒にドレスの下半分がふわりと床に落ち、周囲の男女は驚いて息を飲んだ。

ピンクのレギンスに弾薬ベルトで締めたショートパンツ、そして上にはベストという出で立ちを明かしたジンクスは、帽子を投げ捨てて髪を解き放った。股下に手を伸ばすと、ドレスの下に隠し持っていたフィッシュボーンをひっつかみ、肩に担ぎ上げた。

「みっなさーん!」大声で呼びかけ、ビュッフェテーブルに飛び乗って太腿のホルスターからシビレーザーを抜いた。「おなか空いてるぅ~?」

ジンクスはかかとを支点にスピンして、丸焼きの子豚が口にくわえたパックンチョッパー!目がけて炸裂するエネルギー弾を撃ち込んだ。

「ここの料理は、死ぬほどう・ま・い・ぞ~!」

パックンチョッパー!は爆発し、近くの招待客はアツアツの肉と脂のリボンを頭からかぶった。さらに爆発の連鎖は続く。スープ鍋が空中に打ち上げられ、熱いビーフスープを招待客に降り注がせた。続いてパンチボウルが吹っ飛び、そして爆発のトリを飾るのは、あのウェディングケーキだった。

ケーキに埋められた三発のパックンチョッパー!は同時に爆発し、そびえ立つ菓子の巨塔はロケットのように天に向かって飛んだ。そして、もう少しでステンドグラスの天井に到達するというところで、弧を描いて床めがけて急降下した。墜落の衝撃で巨大ケーキが爆裂し、フォンダンの破片が四散する中を招待客たちは走り回った。悲鳴を上げて爆発から逃げまどっては、べとべとのクリームやシュワシュワいうパンチに足を滑らせて次々と転倒する。

「あのさぁ、あんたたち」顔にかかった青い髪の房をフッと吹いて除けて、ジンクスは言った。「叫んだって、な~んの役にも立たないよ?」

メチャクチャに壊れたビュッフェテーブルから軽やかに飛び降りたジンクスは、一番近い窓にフィッシュボーンのロケット弾を撃ち込んだ。彼女を狙ってハンドクロスボウから発射された鉄の太矢が次々と壁に突き刺さるが、ジンクスは高笑いしながら吹っ飛ばした窓枠から身を投げて、庭に着地した。転がるようにして立ち上がりそのまま駆け出そうとしたが、急停止する。脱出経路は事前にだいたい決めていたが、ふとサンドヴィク邸の正門の方を見ると、そこには背の高いピカピカの「ディスクランナー」――盗んだらめっちゃ面白くなりそうなリング型の乗り物が停められていた。

「あー、こりゃーやるっきゃないよねぇ……」

フィッシュボーンを背中に背負い、茫然とするサンドヴィク家の従僕たちを押しのけて進むとそのディスクランナーに乗り込み、職人仕上げの革製サドルにまたがった。

「で、どうすればコイツ走るわけ?」目の前のコントロールパネルにズラリと並んだ象牙のノブ、縁が真鍮仕上げのダイヤル、宝石のようなボタンを眺めながら、ジンクスは言った。

「とにかく色々試してみよっかぁ~!」

ジンクスは手近なレバーを引き、目に付いた一番大きくて赤いボタンを押した。彼女の下でマシンが息づき始め、甲高い稼働音と出力上昇のうなりを響かせてスプールアップを始めた。幅広のリングの外周に沿って青いライトが回転し始めたその時、屋敷の正門が開け放たれた。険しい声がジンクスに「待てー!」と叫ぶ。アッハ、それ本気で言ってんの?ウケる!スタビライザーの出っ張りがピカピカのフレームの中に格納されると同時に、ディスクランナーは彼女の歓声を乗せてスーパーメガデスロケットみたいにすっ飛んで行った。

「じゃあね~!」ジンクスは肩越しに叫んだ。「サイコーなパーティーだったよ!」

ケイトリンのバイオ・ストーリー(2021.11)

「ピルトーヴァーの保安官」
裕福な名門商人一家に生まれたケイトリン・キラマンは、ピルトーヴァーで生きていくための社交儀礼をすぐさま身につけたが、当の本人は自然の豊かな街の外で過ごすほうが好きだった。“進歩の都市”で資産家のエリートたちと馴れ合うのも、森のぬかるみの中で鹿に忍び寄るのも、彼女にとっては造作もない。ある時は商業地区の上を飛んでいく鳥を難なく追いかけ、ある時は百歩先にいる野うさぎの目を、父親の連射式マスケット銃で撃ち抜いてみせた。

もっとも、ケイトリンの一番の強みは、両親から学ぼうとする知性と意欲にあった。快適で恵まれた暮らしの中にあってなお、彼女は両親から善悪の確固たる基準を叩き込まれた。ケイトリンの母親はキラマン一族の上級会計監査役の一人で、ピルトーヴァーの街がいかに誘惑にまみれ、そのうわべだけの約束でもって人から思いやりを奪ってしまうのか、いつも娘に説いていた。最初のうち、ケイトリンはほとんど耳を貸さなかった──彼女にとってピルトーヴァーは、荒野から戻るたびに愛おしく思える、秩序の守られた美しい街だったのだ。

すべては数年後の“進歩の日”に一変した。

ケイトリンが帰宅すると、家の中が荒らされていた。ひと気がない。使用人は全員殺され、両親は跡形もなく消えていた。ケイトリンは家の安全を確かめるとすぐ、二人を捜しに向かった。

見通しのきかない街の中では、荒野で狩りをするようには獲物を追えなかったが、それでもケイトリンは我が家を襲った悪党を一人ずつ見つけ出した。そうした捜索の果てに、一軒の隠れ家へとたどり着く。両親はそこで情報を吐くよう拷問されていた。ケイトリンは闇に紛れて二人を救い出し、ピルトーヴァーの監視官たちに通報した…が、逮捕された誘拐犯の誰一人として、雇い主の素性を知らなかった──“C”というイニシャルの仲介役が存在すること以外には。

ケイトリンと両親は元の生活を取り戻そうとした…が、何かが根本的に変わってしまっていた。とりわけ母親のほうは、権力争いと二枚舌にまみれた一族の日常と向き合えなくなり、その誉れある立場から身を退いた。その結果、キラマン一族の支配層に空白が生じた。そして、ケイトリンは両親を心から愛してはいたものの、母の地位を引き継ぐつもりも、父にならって技術者を目指すつもりも毛頭なかった。

代わりに、ケイトリンはこの謎めいた“C”という人物を取り巻く、秘密と陰謀の網を突き破ることに心血を注いだ。そして狩りで鍛えた能力を活かし、私立探偵として身を立てると、人でも何でも探し出せる人物として、たちまち世に知れわたった。ケイトリンの両親は自分の力で成功を掴んだ娘を称えて、どんなマスケット銃よりも精度に長ける、技巧を凝らした美しいヘクステック式ライフルを造って贈った。この銃は様々な特殊弾を装填できる上、状況に応じて手軽に改造も施せる優れものだった。

消えたヘクステック装置と幼児の連続誘拐が絡み合う、極めて後味の悪い事件のあと、ケイトリンは監視官たちに呼び出された。

ケイトリンを推薦したのは、同じように不可解な事件への関心を募らせていた監視官だった──そして二人の協力体制の下、自身の薬によって正気を失ったケミ研究者が雇った、つぎはぎの怪物めいたならず者の一団と戦ったのち、ケイトリンは正式に保安官になってはどうかと持ちかけられた。一度は固辞したケイトリンだったが、監視官たちの情報網を使えば、より早く“C”の正体を突き止められるのではないかと思い直し、この打診を引き受けた。

それ以来、ケイトリンは監視官たちの間でも尊敬を集める保安官となり、“進歩の都市”の平和と安全を守るべく日夜戦っている。最近は勝ち気で向こう見ずなゾウン出身の新人、ヴァイと組むようになった。水と油のような二人がなぜ手を組んだのか──しかも目覚ましい成果を挙げられているのか──という点については、監視官仲間はもちろん、二人が刑務所送りにした悪党たちの間でも、突拍子もない噂話や、見当はずれの憶測の的になっている。

だが、ケイトリンは知らない。自身の捜査によって真相へと近づいていく中、あの“C”もまた、ケイトリンの動向に目を光らせていることを…

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追跡は蜜の味
太陽の門が閉じられて鐘が三回鳴っても、ピルトーヴァーが眠りにつくことはなかった。まさに今、ケイトリンはある場所に向かっている。メインスプリング・クレセントを駆け抜け、夜更けまで大騒ぎしながらそぞろ歩く人々をすり抜けるように、カフェやビストロが立ち並ぶ洒落た並木道を進む。ナイトクラブから続々と人々が出て来る。すぐそばのドロースミス・アーケードにある劇場からも。この通りは間もなくごったがえすだろう。早くデヴァキに追いつかなければ、取り逃がしてしまう。

「奴が見えるか?」背後からモハンが叫ぶ。

「見えてたら、とっくに狙いをつけてるわ!」

肩から下げているヘクステックのライフルはいつでも撃てる状態だが、ターゲットがいなければ話にならない。そしてデヴァキは、驚いて駆けだす鹿よりも逃げ足が速かった。彼はこの五週間の間に、(判明しているだけで)三つの名家の作業場に押し入っている。また、その他に起こった二つの事件についても、ケイトリンは彼の仕業だと睨んでいる。いずれの作業場でも何か重大なプロジェクトが進められていると踏んでいたケイトリンとモハンは、モリチ一族の各作業場に見張りをつけていた。そのヤマは当たり、デヴァキが現れた。最初は気づかなかったが、点灯係が街灯に次々と明かりを灯していくと、デヴァキの姿が通りの向こうにあるカフェの窓に映し出された。同時にデヴァキもケイトリンがいるのに気づき、波止場のネズミの如く逃げ出したのだ。

ケイトリンは次の交差点で足を滑らせながら急停止した。ガラスの檻に囚われた炎が、街灯の先端で燃えている。その暖かく黄色い光が、驚きの目でケイトリンを見つめる人々を照らし出している。特徴あるデヴァキの影を捉えるべく、ケイトリンは淡いブルーの瞳で人々の姿に目を走らせる。

若い男が通りを渡ってケイトリンのところにやって来た。夜遊びに浮かれて頬が赤い。彼はケイトリンに手を振って、こう言った。

「走ってた男を探してんだろ?デカい帽子をかぶってる奴?」

「そうよ」とケイトリン。「彼を見たのね。どっちに行ったの?」

若い男は左を指して言った。「あっちにすっ飛んで行ったぜ」

男が指さす方向を見つめると、うきうきしながら劇場に向かう人々がドロースミス・アーケードから溢れ出している。アーケードにはアーチ状の天井が続き、細かい細工が施された鉄柱とステンドグラスが目を引く。人混みの中には道端で飲み物を売る人々や、金持ちの男を探す売春婦も交じっている。モハンがようやくケイトリンに追いついた。汗だくで息を切らし、頭を垂れ、両手を膝に置いて身体を支えている。青い制服の上着は歪み、帽子は後ろにずり落ちている。

「群衆に紛れようとしているんだろう」と喘ぎながらモハンが言った。

ケイトリンは突然現れた「善き協力者」をしばし見つめた。よく仕立てられた、仕立ての良い高価そうな服を着ているが、袖口はほつれ、肘の部分は擦り切れている。ケイトリンの目が細くなる。色も襟のデザインも、去年の流行りだ。

金持ちね。でも、ツキに見放されている。

モハンは混み合う通りの方を向いて言った。「おい、ケイトリン!行くぞ。奴を見失ってしまう」

ケイトリンは片膝をつき、通りを違う視点から見た。よく踏みならされた敷石は、夕方に降った雨に濡れて、つやつやと光っている。この角度からだと、逃げる男が残したと思われる、石を踏んだ跡が見える。しかしその跡は左ではなく、右へと向かってていた。

「そんな嘘をついて、デヴァキにいくらもらったの?」ケイトリンは流行遅れの服を着た若い男に言った。「ヘクス金貨一枚より安いのなら、体よく騙されたってとこね」

男は手を合わせ「実のところ、五枚ももらったんだぜ」というと、くるりと背を向け、笑いながら群衆の中に走り込んでいった。

「何だと…?」とモハンが言いかけたときには、ケイトリンは逆の方向に駆け出していた。貴重な時間を無駄遣いしてしまったが、デヴァキの行き先はわかった。モハンは瞬く間に置き去りにされる。彼女は時々モハンとコンビを組む。彼は砂糖をまぶしたパンに目がない。それは、警官の妻がよく夫のために作るパンだ。

ケイトリンは曲がりくねった細い道を走り、人がめったに通らない路地を抜け、煉瓦造りの倉庫の高い壁に挟まれた小道を進んだ。 彼女とぶつかるたびに上がる悲鳴に苛立ちながら、混み合った通りを横切る。ピルトーヴァーを真っ二つに分かつ巨大な谷に近づくにつれ、道はますます細くなる。しかし、ケイトリンはデヴァキの知らない抜け道を知っている。十数回も角を曲がった末に、また曲がりくねった、敷石がうねるように隆起する道に出た。ぎざぎざとしたラインを描きながら崖に続いている。この道は、地元の人々にドロップ・ストリートと呼ばれている。道の一番先で、ヘクステックのコンベアがぜいぜいと喘ぐような音を立てて夜遅く、日が落ちるまで稼働しているからだ。

鉄枠のキャビンはまだ開いておらず、菱形のグリルも閉じられたままだ。ゾウンの人々が十五人ほど、酩酊したままチケットブースに集まっている。その中に探している男はいない。ケイトリンは彼らに背を向けてしゃがむと、ライフルの銃身をメダルダ一族の印が入った木箱にもたせ掛けた。間違いなく盗み出されたものだ。しかし、今この箱を確認している時間はない。

ケイトリンは親指でライフルの撃鉄を起こし、銃を構える。銃尾からブーンという小さな音が響いて来る。台尻をしっかりと肩に押し付けると、ゆっくりと呼吸する。頬を胡桃の銃床に押し当てて片目を閉じ、透明な二枚のレンズ越しに狙いを定める。

あまり待つ必要はなかった。

角からデヴァキが現れた。ロングコートの裾をひるがえし、背の高い帽子をかぶっている。急いでいる様子はない。追っ手をまいたと思い込んでいるのだ。真鍮で角を補強したケースを持つ手には、金属製の爪が付いている。それは、彼がまだ若い頃、客の事情など一切尋ねないゾウンのとある装身具店で、たいした考えもなしにつけた粗悪品だとヴァイが言っていた。

ケイトリンはその奇怪な様相の手を狙い、引き金を引いた。オレンジがかった赤い閃光が銃口から迸り、デヴァキの手が吹っ飛んだ。彼は叫び、後ろ向きで倒れた。帽子が頭から落ち、ケースも地面に投げ出される。デヴァキが上を見る。ケイトリンを捉えると、痛みに見開かれた目に驚きの色が浮かんだ。彼は逃げ出そうとした。だが、ケイトリンはこの時を待っていたのだ。銃尾にあるサムスイッチを回し、再び引き金を引く。

今度は閃光がデヴァキの背中に命中し、エネルギーがバチバチと弾けて蜘蛛の巣状に炸裂した。デヴァキはのけぞって、地面に崩れ落ちた。ケイトリンはライフルの電源を切って肩から下げると、デヴァキのところに歩いて行く。電気の網の効果はもう薄れ始めていたが、そうすぐには立ち上がれないだろう。ケイトリンは前屈みになってデヴァキが落としたケースを拾い上げ、軽く舌打ちしながら首を横に振った。

「ど、ど、どうやって…」痙攣に体を震わせながらデヴァキが言う。

「――どうやってここにいるのを知ったのか?って訊きたいのね」とケイトリン。

デヴァキが頷く。がたがた震えているが、どこか芝居がかって見える。

「あなたがこれまでに犯した数々の盗みは、一つひとつにはたいして意味はない。 でも、もっと大きな目で見れば、あなたが部品を集めているように見えたのよ。ヴィシュラーのヘキシレンカリバーのね」

ケイトリンはデヴァキの横に跪き、固い体に手を置いた。

「知っての通り、その武器はあまりにも危険だという理由で、ここじゃ非合法なの。ピルトーヴァーで、わざわざ禁止されているヘクステックに触ろうなんて人はいないわ。でも、ノクサスにはいるかもしれない。きっと、気前よく払ってくれるんでしょうね。でもね、あなたがそんなものを街の外に持ち出すルートは、たった一つしかない。あまり評判のよくないゾウンの密輸業者を介す以外に術はないわ。この時間にまだゾウンに下りていけるのはここだけよ。ピルトーヴァーに潜伏する気がないのがわかれば、後はこのコンベアで待ち伏せしておけばいい。さて、いろいろ聞かせてもらいましょうか。あなたは、一体誰の指図を受けているのかしらね?」

デヴァキは何も言わなかった。ケイトリンはにやりと笑って、うつ伏せになったデヴァキの体に触れ、こう言った。

「素敵な帽子ね」